事業内容

こころの育み方は今の日本においては大きな課題になっています。
従来のメンタルケアに加え、できないを出来るに変えるビジョントレーニングからヒントを得て開発した《ブレインアクション》で楽しく才能を発揮できるようなこころの基礎作りを行います。

 

  • 学習指導型

ブレインアクションで脳をトレーニング+学習指導

(合計90分) 

  • メンタル特化型

メンタルケア+ブレインアクション

(合計60分)

  • 大人版心を育てる家庭教師

メンタルケア+ブレインアクション

(合計60分)

 

からご選択いただけます。

過去に行った団体サポートプログラム及び講演活動の一例

 

  • 大谷園林保育園様
  • 非営利団体Academic&Sports様 
  • 不登校親の会 すっきり会様
  • 就労以降支援事業所ハッピーフィールド様
  • 大阪公立中学校中体連様 主催イベント
  • ノアフットサルステージ茨木様

をはじめ、 

京都府公立高校、放課後デイ、インターンシップ学生様向け、幼児教室、強豪クラブチーム、SWBCJAPAN様など団体サポートや講演活動を行っております。

準備中



活動の記録


人生コラム

「普通でええねん、有名人なれとか言うてないねんから」

良く両親は僕にそう言っていた。

前置きとして我が家はいわゆる過保護だ。自己犠牲がすごい。

母親が流産を経験し、母父共に家庭環境複雑。

そんな家庭に育ったから子どもを何よりも大切にしたいと思うのも今になってはわかるし心から感謝している。

 

だけど、、、

「普通って何だろう??」

考えても考えても出てくるのは同級生や父母の顔

学生時代、他人と自分を比較しては自分に足りない部分を探し補うために一生懸命になっていた。

普通になりたいと言う思いはいつもどこかにあった。

それから僕は普通を探す長い旅に出ていく事になる。

今となっては良かったと思えるが、「普通」に苦しめられ、修行のような学生時代だったのは言うまでもない。

ただ、今は人生が本当に楽しい。

今は「ぼくにとっての普通」を見つけたのだろうと思う。

普通な僕が精神病

初めはチック症、小学生~社会人3年目まで薬を飲みまくった。

数えてみれば軽く10は超える。

チック、うつ病、起立性調節障害、パニック障害、自己表現性障害、適応障害などなど

言ってしまえばフルコンボだドン!というやつだ。

 

その中でもぼくを1番苦しめたのは強迫性障害だった。

その上、独特な感性や特性も持ち合わせていたので、仲間に入れているようで浮いているような感覚。

友達は大勢いるのに何か仲間外れにされている感覚が常につきまとっていた。

 

印象的なエピソードをまとめてみた、、

 

・父に「道具を大事にしないと野球が下手になるぞ!」としかられた次の日。

その言葉そのままの意味でとらえてしまったので、道具に足が当たったりすると謝るようになった。

次第に奇声を発するようになり、自宅で意味もなく叫んでいた。叫んでいたら自分の心のざわめきが落ち着いた。

調子が悪い時は声が枯れるまで叫んでいた。

 

・自分の中に2人の自分がいる

自分の中に天使(良い自分)と悪魔(悪い自分)がいて、悪い自分が何か言ってくる。

例えば、平和学習で戦争について学んだ時に、天使は「こんな事2度と起こしてはいけない」とか「今生きてるのは当たり前じゃないんだな」などと思っているのだが悪魔の方は「また、戦争にならないかな」とか「死ねばいいのに」とかってささやきだす。だけど自分はそんな事思いたくもない。

 

・悪魔を消すために行う奇怪な行動の数々

悪魔はいつ何を言うかわからない。

気分がいい時だと囁かれてもまた言ってるわ〜ぐらいの感覚なのだが、気分が悪い時やストレスが高まってくると、ささやくどころか暴れ回る。それを消すために上記のような奇声を発したり、いつまでも仏壇に手を合わせていたりしていたがそれでも治らない時は、頭をぼーっとするために思いっきり力んだり、頭を自分で思いっきり殴ったり、壁に打ち付けて意識を朦朧とさせていた。

 

こんな感じ。

 

そりゃあ不登校にもなるわなと今となっては思いますが、当時はそんな自分が嫌で嫌で仕方がなかったです。

結果的についた病名は11個、学生時代は薬漬け。

母にも「この年であんた薬漬けやな」とはよく言われたものです。

 

高校1年の時にご飯が食べれなくなり、野球部を退部。大好きな野球がなくなり、勉強に明け暮れた。

1日12時間、あこがれの先生になるために必死で受験勉強。

自分のやり方も悪かったのだが模試で撃沈。国語なんて26点。200点満点中ですよ笑

当時の塾長に見せると大笑いされ「おめえむりじゃんwww」と言われ。

突如、塾へいけなくなり学校へ行けなくなりました。

1日20時間寝る日々。

毎日のように電話をかけてくれた担任の先生

見守ってくれていた家族には感謝しかない。

あと1回休んだら留年という状態で何とか卒業し推薦で大学へ。

高校の不登校生活は突如始まり、突如終わりました。

 

大学は奈良にあったので電車通学。

途中下車しゲロ吐いて1限目欠席とかは結構ありましたが、徐々に元気になっていきました。

卒業研究の時に再び不登校になり内定辞退も経験したものの何とか復活し再就活。

大学卒業後、やりたかった大手学習塾に就職しブラック労働の末1年持たず退社。

その後年末の短期アルバイトで爆発事故に遭い顔面・両腕Ⅱ度強の大火傷。救急車も呼ばれず自分で病院の受付をして即入院。

その後はやりたいことも見つからず職を転々とすることになります。

社会人3年目の転機

薬は飲み続けていました。

退院直後、会社の工場長は僕の家まで来てなぜか笑っていた。

今でも信じられない。

会社と揉めた。裁判になった。

次第に引きこもり、「死にたいな」が「どうやって死ぬか」に変わっていった。

3階の窓から下を見た。怖かった。

自殺をする人ってどんなに勇気がいるんだろうか、どんなに追い込まれているのだろうか、

僕は死ぬことすらできないと涙が出た。

そして野球のトレーニングロープに手をかけた。

首を通して体重をかけた時、めちゃめちゃ泣いた。

その時「自分はまだ生きたいと思ってるんだな」と実感した。

すぐに両親に「オカンごめん!死のうとしてた!今すぐ病院連れていってくれ!」とリビングに駆け降りた。

生きたい自分がいるとわかってからは早かった。

カウンセリングや心療内科へもいった。

自分で色んな事を試してみた。

 

今度は興味のない事をやってみよう

新しいことが見えるかもしれない。

 

少し元気になった僕は五条坂で修学旅行性向けにお土産を売るバイトをした後、

質屋へ就職した。

 

入社3日後、そこには怒号が飛び交っていた。

1社目を遥かに凌ぐブラックだった。

僕の返事は「yes」か「はい」しかないのだ。

3ヶ月で辞めた。

 

今度は、父親が製造業だったので決まった時間に終わる製造業へ就職。

ひたすらに座布団やおふとんを作る日々。

やりがいは見いだせなかった。

 

ある時、僕自身会社で心が悲鳴をあげる出来事があり、再び薬が増えた。

 

そんな時、祖母が「怪しい治療院あるけど腕は確からしいし行ってみるか?」という。

迷わず行くことにした。

社会人3年目の1月だった。

 

そこで僕の運命を変える出会いがあった。

 

ニコニコと仏のようなやさしい笑顔で登場したその先生。

涙が出た。

色んな話をしてくれた。

自分も自殺をしようとしたこと。

苦労してここまでたどり着いたこと。

人生何歳からでもやり直せるということ。

 

その先生と話していて1冊の本を勧められた。

「毎日が冒険」著:高橋歩

生まれて初めて食い入るように活字の本を一気に読み切った。

 

「自分もできるかも」

 

ちいさなちいさな希望が見えた。

 

「独立したいねんけどどうやったらできるんかなあ?」

 

0ベースの僕は本当に何がしたいのか考えていた。

 

そんな時に定年退職をし再雇用された人を見たとき人生が変わった。

「あ、このままじゃだめや」

ただでさえ年金払い損世代と言われている僕たち

しかもこの人はバブル時代を経験した上での退職で再就職している。

「え?おれもしかしてずっとこのまま?」

「あかん、あかん、どうせ死ぬまで働くなら自分のやりたい事、好きな事やろう

その次の日から動き出した。

ぼくは何をしているとき楽しいのか?

何がワクワクするのか?

出てきたのが子どもと遊んでいるとき。

塾の時、子どもと接しているとき本当に楽しかった。

 

その日の帰り昔見ていた生徒とたまたま会った。

「あぶら先生やんな!久しぶり!今〇〇大学やねん!頑張ってんで~!」

その言葉に救われた。

「おれそういや先生やったんや」

「もっかい先生なろう」

 

治療家の先生に指針を示してくれるある先生を紹介していただいた。

自分が何者なのかが明確になった。

 

そして、決意をしたとき、大好きな祖父が亡くなった。

片方だけしかない肺で、剥き出しの心臓で78歳の生涯を閉じた。

祖父には僕が頭を打ちつけたり泣いている様子しか見せていなかった。

せめて最後ぐらい笑顔で見送ってやろうと無理やり笑顔を作って泣いた。

 

「おじい見といてくれな〜、がんばるわな〜」

 

そう言いながら満面の号泣笑顔で見送った。

 

おじいが最後の一押しをしてくれた。

 

その時を境に一気に事が進んでいった。

 

まずシュタイナー教育を学び、ヒプノと出会った。

NLPを学び、雨がきっかけでビジョントレーニングに出会った。

 

ご縁がつながる面白さ

ご縁はすごく面白いものだった。

 

僕を助けてくれた治療家の先生は実は僕が引っ越す前の同じ町内の方で幼稚園の時は近所のお兄さんという関わりだった。

今こうして多くの子どもたちと関わっているのだが、そのきっかけは僕を高校3年間卒業まで面倒をみてくれた担任の先生だった。その先生が僕が卒業をして10年後、僕を学校へ呼び戻してくれた。一時的に同じ職場で働けた事、そこでのとある女性との出会いを機にご縁が一気に広がっていくことになる。

 

今思うと全部が繋がっていた。

 

全てが動き出したタイミング

それは自分自身が何者か?気付いたタイミングだった。

 

僕は引きこもりだった。

何もしなかった。

ただ家の中の暗い部屋で引きこもっていた。

その分自分自身と向き合う時間は嫌というほど取れていたのだろう。

悟りを開くほどではないけれども、自分自身と必死で向き合った。

時には逃げ、時には向き合い、また逃げた。

 

自分は何者か?

自分は子どもが好きだ。子どもの笑顔がたくさん見たい。

それが腑に落ちた時一気に動いていった気がする。

 

 

 

恩を社会へ返していく

今では当時の症状は一切出ていない。

薬も飲んでない。

お金はない。だけど最高の日々を送っている。

 

 

あの当時の経験が僕の力になっている。

直接的に関わってくれた人、間接的に関わってくれた人考えてみたら本当にたくさんの人に助けてもらっていることに気付いた。

 

恩返しをしようと思ってもおそらく返しきれない。

というかそもそも受け取ってくれないだろう。

 

両親に返そうとした時も

「いらんわwwそんなんいらんし自分で使い」

と断られた。

 

多分本気で欲しくないのだろう。

そもそも返してもらおうと思ってやってないのだと思う。

返す相手が違うなと思った。

 

もちろん心から感謝をしている。

だからこそ一番喜んでくれることは何かな?と考えた。

 

それは恐らく「僕が健康でイキイキと楽しそうに働き自分の人生を謳歌していること」だろうと思う。

社会の役に立てればなおよしだ。

だから僕は独立をした。

大袈裟かもしれないが僕の命は僕だけのものじゃなかった。

 

子ども達の世界へ羽ばたく才能を伸ばす!

 子ども達は本当にユニークだ。

発達障害の子どもは個性が良くわかる。

うつや精神的な悩みが強い子どもは本当に純粋さがよくわかる。

みな素晴らしい能力があり天才性があり僕は日々ワクワクして仕事をしている。

 

保護者の方から衝撃の「子育て教えてください!」

これには驚いた。

今では「この声掛けってあっていますか?」

「子どもが~と言うようになりました!この考えどう思いますか?」

と度々インスタのDMや直接メールで聞いてもらえます。

「本当にありがとう!」

あの経験が無ければ子ども目線で伝えようなんて思わなかったですから…

結局、自分には何もできないと思ってたからこそ子どもに関わる時だけは輝いていたと自分の能力を発見出来たんですよね。

何もできないくらいがちょうどいいみたいです。

 

何もできないからこそふとした時に見えて来る突出した特徴に気づけるんだと思います。